理性の限界を感じる日
追記:理屈→理性にタイトルを変更。別にエッツィオな話ではない
今日はいろいろとままならない。
見てる動画に「ここにコメントないよ!!!(*_*)」みたいな鳥肌の立つコメントが流れたり
見たい番組が甲子園や電波状況のせいで見られなくなったり
ハッシュタグでアニメ実況しても「きゃーーーOO!!!♡♡」みたいなのしか来なかったり
近所の犬がうるさかったり
欲しい本がピンポイントで抜き取られてたり
うんざりするような飯がつくられてたり
ラグのせいで明らかに不自然な負けを喫したり
・・・でもこの感情は否定される。
誰に?まず誰より私に、だ。
たとえ鬱陶しいコメントがあっても
「コメント機能は腐女子と目立ちたがりのもんじゃねーんだよ!!!」
とは言えない。
「腐女子」とか「追っかけ」「小学生」でカテゴライズすることに
正当性がないことを知っているからだ。
地方によって放送時間とか電波状況に差があっても
「映らないTVに何の意味があんだよ!!!
TV離れとか言う前に地域格差無くせや!!
くだらん健康番組とか地域番組とかなくしてさ!!」
という論に正当性がないことを知ってる。
ゲームで不自然に負けるのも
「ラグのせいじゃない。お前の腕のせい」と一蹴されることを知ってる。
需要のない飯を大量に作り残飯をだすことに悪びれもしない母も
「作ってもらってる」立場の炊事能力のない人間から文句は言えない。
世界は私を中心に回ってはいない。知ってる。
私は理屈の側に立つべき人間だから。
感情で自分の正しさをおしつけることがどんなに嫌なことか知ってるから。
私は感情を理屈で否定する。
でもだんだんとそれも限界だ。
運よくまだ何も起こしてないし起きてない。
でもこのままままならん(まがおおい)状況が続けば「ま」がさすかも。
書いてたら奇しくもこんなエントリが。正しい。
【ブログ更新】「理屈は誰を救うのか」~理屈っぽい人間は嫌われる。言葉を介さず直感で理解し合うことが時に美徳だとすら言われる。しかし、それは村落共同体によくある「排除」の原理の類型に過ぎないのではないか?言葉から逃げるな。という話。
http://t.co/ptkL4AM7bF
— 意識の高い学士 (@midwhite) August 16, 2015